たえてさくらのなかりせば

あなたに会わなければ私の心は平穏で退屈だったろうに。チクショーありがとう! という気持ちを書くところです。

プリパラに救われたわたしたち(アイパラ50話雑感)

プリパラが終わることに耐えられず駄々をこねたのが一か月前なんですけど、あっという間に一か月経ちましたね。

 

maruyukifan.hatenablog.com

 

正直記事を書いてもしばらくは向き合えなかったんですけど、最終回の5日前である金夜に一念発起して4話分ぶっ続けで見ました。50話に至ってはお隣さんから苦情来るかもしれないレベルでおんおんと泣きました。

 

なんで泣いたかって、新衣装とか新CGとかいろいろ構成が上手いのもあったんですが、見返してみて確信した点として、この作品としてのクライマックスに”わたしたち”が登場したからなんですよね。

 

”わたしたち”とは、前回記事で言及した「プリパラに出会ったことによってアイデンティティを再形成できた少女たち*1」であり、もうちょっと一般的に言えばプリパラを鑑賞している視聴者・あるいは消費者。

プリパラというジャンルの特筆する点として、アニメ・声優たちによるライブ・ゲームの体験を通して、作品世界とこちらの視聴者世界がちかぢかとつながりあい、まるで同一の次元に存在しているかのような錯覚/一体感を生み出したことが挙げられる、と思っています。そしてその一体感によって、”わたしたち”はプリパラからのメッセージをより深く受け取り、自身と向き合う勇気を得た。

その、”わたしたち”とプリパラが同じ世界で触れ合っているという感覚を、作品のクライマックスでもう一度呼び起こしてくれたんですよ!!!!!!!さいこうじゃないですか!?!!??1!!!?1・1!なくわこのやろう!!?!>?!・!

 

この点について消化/昇華しないと新番組に正座待機できないので、自分のために書きます。未見のひとにも伝われこの情熱。

 

(当然のことながら、ここから先はアイドルタイムプリパラ50話、およびその前後のストーリー解説を交えた感想になります。一応注意書き。)

(セリフがひとことひとことすごいんですよ、キャプ画貼れないので書き起こします)

 

”夢を失った夢たち”

唯一の相手だったガァララがあっさりとファララを許し和解してしまったことで、悲しさとさみしさにとらわれて暴れるパック、そしてパックのなかに取り込まれて眠ってしまったらぁら。

らぁらが閉じ込められたのは、ガァララが過ごしていた時計塔。ガァララが起き続けるために、これまでパックとガァララが世界中の女の子たちから奪ってきた夢の結晶=ジュエルが、冷たい氷の床や壁の中に埋まっている。そしてその冷え冷えとした空間には、半分眠っているような、あるいはすべてを諦めたような目をした女の子たちがたくさん座り込んでいた。少女たちはさまざまな時代の服装をしている。

彼女たちはらぁらにつぶやく。

「夢なんて叶いっこないわ」

「ここからはもう出られないのよ、何千年もここにいたし」

「もう夢なんて」「忘れちゃったね」

 

「これは、女の子たちの夢…長年閉じ込められているうちに、夢が夢を失ってしまったんだ」

彼女たちはパックがこれまで奪ってきた、パパラ宿に暮らす女の子たちの夢そのものの表象なのだが、長いこと閉じ込められていたせいで、精力を失い存在そのものが消えかけていた。抜け殻のような状態で、彼女たちはここから出ることを諦めていた。夢を叶えられる空間=プリパラの隅で閉じ込められていた、自分の意志ではなく他者によって失われた、夢の成れの果て。

プリパラを出たパパラ宿では、これらの夢をかつて抱えていた少女たちが、一見元気に暮らしているように見えて、自分だけの夢を忘れ、あるいは諦め、そのまま生活しているのだろう。

 

このシーンを見て、「あっこれ”わたしたち”じゃん」と泣き出す。

この「夢」たちって「プリパラでアイドルになって活躍する」のみではなく、人それぞれで大きなものからささやかなものまであるんですよ。*2。職業、休日の予定、新天地での希望、憧れの存在、着たい服。

それらが叶う前に、他者によって抑えつけられ、消え失せてしまった経験なんて、きっと誰にだってある。それと同時に、近くにいる少し恵まれた誰かが、同じ夢をやすやすと叶えているのを見たことも。

夢なんて叶わない、身の丈に合わない高望みだったんだ。思い通りに夢がかなえられるのは限られた人間だけで、それはわたしではないんだ。幼いころにそう感じてしまったら、あとは夢を諦めるか忘れたふりをするしかない。

これが”わたしたち”の根源。プリパラに出会う前のわたしたち。

 

 らぁら=「プリパラ」から”わたしたち”へのメッセージ

らぁらを救うためにマイドリが歌い、閉じ込められていた空間にドアが出現する。

らぁらは、失われた夢たち=少女たちに叫んで手を広げる。

「みんな、夢を忘れないで!」

「ここから出て叶えよう!私たちが応援するから!」

実際に、らぁらはこれまで何度もパラ宿の女の子たちを励まし、憧れを思い出した彼女たちの手を引いてプリパラに連れてきた。ほかのキャラクターたちもお互いの夢や憧れに触れ、ぶつかりながらなるべく尊重してきた。

その姿を見て、「わたしも、夢を持っていいのかもしれない」「持つだけじゃなくて、叶えてもいいのかもしれない」と少しずつ”わたしたち”は思い始めたのだ。

 「本当に?」

「夢、叶うの?」

「…本当に?」

「ここから出られるの?」 

 ここの、らぁらに呼びかけられた少女たちの反応が、いま述べた”わたしたち”がプリパラに出会ったころとダブって見えて、何度観返してもたまらなくなる。今までうつむいていた顔がほんのすこし前を見て、諦めていた瞳がほんのすこし開かれて。

プリパラを見て一歩を踏み出したあとも、いきなり自信なんてすべて身につくものではなくて、何度も何度も、本当に夢を叶えていいのか戸惑って立ち止まりそうになった。「本当にわたしがわたしの夢を叶えていいの?」「わたしの夢は肯定されるの?」とこわごわ何度も振り返っても、その度に笑顔でうなずいてくれたのが、プリパラというジャンルそのものなのだ。

女の子がそれぞれ持つ憧れや夢の違いを肯定し、叶えることを応援してくれる。そんなメッセージをアニメやゲームで4年間発信し続けてくれたこと、その年月も”わたしたち”が救われる要因の一つだったと、わたしは大声で泣きじゃくりたいのだ。

 

それから全員がかわるがわる歌を繋げていき、夢の抜け殻だった少女たちは、忘れていた夢をぽつりぽつりと語り始め、それはやがて大きな声になる。

世界一のピアニストになりたかった、友達百人作る、パティシエ、神アイドル、デザイナーになる、シイタケが食べられるようになりたい、世界中のプリパラでライブする、世界一のアイドルになる!

”Believe Your  Dream!”

曲が最高潮に盛り上がって、ここで観客の女の子たちが一斉に合唱するんですよ~~~~~~~!!!!!!!!!!なくやろこんなの

 

 

ダメ押しのメッセージが最高

そしてパックは暴走を止め、奪っていた夢が吐き出されて全て元の持ち主のところに帰っていく。帰っていくんですけど、ここでまたプリパラの白眉さをちらっと感じてしまったんですよ。

いろんな女の子たちに夢が戻って瞳がキラキラ輝くってシーンなんですけど、一番最初に描かれるのが、町のベンチに座っていた60代くらいの女性2人なんですよ。すごくないですか!?!!失われた夢たちのシーンでも聖子ちゃんカットの女の子出してたりしましたけど、改めてここで「かつて少女だったすべての人々へ、いま夢が戻っていくこと」を表現するんですよ。現在未成年である女性だけじゃないんですよ少女は!!うまく言えないんですけど、わたしはめちゃくちゃここで感動してしまった。

このあと高校生、小学生、高校生?ときて布団たたいてる主婦、OLふたり、ティーン?と続いていくので、この先頭打者がなかったら定番の流れとして流していたと思います。*3プリパラはIQ5000あるってのは本当でしたね。

 

 

 

 

プリパラ終わるの嫌だよ~~~~~!!!!!!!!!ってバタついていた自分にとってはこの50話で、ああそういえばこんな風にプリパラに救われたんだっけ、と思い出してすこし気持ちが昇華されたというか、これからもプリパラは”わたしたち”のような少女を救ってくれるだろうなと思えてちょっと進めたような気がしました。

 

書きたいこと書いたのでおしまいにします。

明日からプリ☆チャンが始まりますね。これにより日曜は正味3時間くらいテレビから離れられないことになります。とっても楽しみです。

*1:この「少女たち」は現在までも少女である必要はないし、性別で少女である必要はない。その人たちの内心に住まう「幼いころのだれか」が救われたのならここでは誰しも少女に含まれる。

*2:このことはアイドルタイムプリパラおよび夢川ゆいというキャラクターで何度も語られ、そしてこのあとでもういちどはっきり示される。

*3:ついでにいうと詳細な記述は省きますが、かつてプリパラ関連のブログで「高校生は女児と呼ばないだろ(=プリパラの対象年齢に含まれてないだろ)」みたいなコメントがついていたことにずっとモヤついているので、何度も示されている「女の子の憧れであるプリパラは年齢で区切っていないこと」の表現は私にとって重要なポイントになっているのです。

プリパラに選ばれなかったわたしたち

どうもお久しぶりです。最近は人に誘われて映画をよく見ます。楽しいですねバーフバリ。

ところでプリパラが終わるんですけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日常の中でふとプリパラのことを考えると、ここで思考が停止する。エラーにより動作を終了しました。

そのままだと車にひかれたり上司に怒られたり料理を焦がしたりするので、私の社会性が瞬時に脳を殴る、その結果数秒ほどで復帰している。のだが。

いい加減この状態で暮らすのも大変なので、書き出して何とかならないだろうかと思った次第である。

今日久しぶりに筐体で遊び、1月末までの本編を消化して追いついたので、さて書かねばなとパソコンの前にへばりついている。

 

 

 

知らない人に言えば、ゲームセンターの筐体および玩具の展開、その販促アニメが企画を新しくするということです。

 

 

ツイッターを眺めているとプリパラが終わってしまうことの嘆きをいろいろな言葉で見かける。

曰く、活動圏内の服屋や映画館が全部潰れる感じの、生活にかかわる絶望。

曰く、乗っていた大きな船がひっくり返って救命ボートで海に投げ出されたよう。

曰く、住んでいた家が火事で焼け出されたよう。

あるのが当然で無くなるなんて思ってなかった、自分を守ってくれていた大きな安心感。自分の足元が常に踏みしめていた地面なのに、急に底が抜けたような気持ち。どれもそんな不安を吐露している。

大げさじゃない、どの言葉もちっとも誇大表現じゃなくて大まじめだ。そしてわたしもそれに倣うなら「今住んでる町が一か月後にダムの底に沈むと予告された」気持ちだった。えっっまじ?そんなことあるんだーへーうっそー……え、じゃあそのあとわたしどう生活すればいいの?…………え、わたしいきていけるの?

こんなの、直後に言える状況になかった。一か月前の私は、お昼休みにスマホで新情報を見て、職場で突っ伏して、情報からの感情を咀嚼できなくて、とりあえず呻いた。それから、仕事から帰るととりあえず寝込んだ。咀嚼できなかったからである。

次の日からも、私はプリパラを避けた。仕事が忙しくて休日も出かける用事ばかりで、アニメも年明けからろくに見ず筐体もほったらかして、目をそらした。だって向き合えない。向き合えばたった一か月と少しで”終わる”という言葉が飛び込んでくるのだ。

 

プリパラが”終わる”とは、わたしたちにとってどんな意味を含有するのか。

 

嘆く人たちはみなきっと、プリパラに何かしら救われた経験がある。

私はプリパラに救われた。オタクが頻発する誇大表現ではなく、プリパラというアニメのストーリーやテーマに勇気づけられ、キャラクターの生きざまに憧れ、そのキャラたちを表現し体現するi☆Risにときめいた。

彼女たちは「どんな形でも、自分自身を肯定することはできる」ことを伝えてくれた。

コンプレックスは少し角度を変えただけで魅力になること。

人気を得るために普段と変身してもかまわないこと。

他人から見られているときより弱っちい姿であってもいいこと。

我が儘として自分を貫いても、友人と分かり合えること。

他人から望まれるように変わらなくとも、自分が自信を持てる姿でいればいいこと。

 

このことを繰り返し伝えてくれる作品であることは、私が言わなくとももうすでに様々な人から叫ばれていることだろう。*1

私は鏡が嫌いだった。正確に言えば鏡で自分を見ることが怖くて嫌いだった。やりたいこと・したい服装があっても、自分に許されていない気がして、ずっと遠くから眺めるばかりで身動きが取れなかった。

 

 

「みんなに届くように、世界中に届くように!思いっきり歌うぷり!」

「ここではすべての女の子に、それが許されているぷり!」 

 

 

プリパラは、私を許して救ってくれた。キャラクターだけではない、都会にいるこどもだけではない。中途半端な町にいて身体ばかり大人になっている、他ならぬわたしを!

プリパラを観ているうちに「わたしもなりたいように、在りたいように変わっていいのだ」と思えるようになり、少しずつ、少しずつ自己実現を始められるようになった。

興味のあった服や小物を買い揃えて鏡を覗き込む。行きたいと思った場所やイベントに足を運ぶ。そこでは褒められたり歓迎されたりした。

そのうち、鏡の中の自分が醜くなくなった。と同時に鏡の中の”わたし”とやっと視線が合わさるようになった。この前の春頃のことだ。わたしはようやくわたしを認めてあげられる段階まで来たのだ。

 

プリパラが好きな人、特に「プリパラに”救われた”」なんて言う人は、おそらく過去に何らかアイデンティティの形成に失敗していて、その欠落がプリパラに触れることで埋まったのだと思っている。

 

 

そのプリパラが、終わる。つまり私たちの前から姿を消してしまう?

えっ、つらい。

 

ねえ今日はずっと欲しかったデザインのワンピースを買った、ねえ今日は化粧が褒められた、ねえ明日は行きたかったコンサートの日だよ。いいかな、いいよね。

一歩一歩、やりたいこと・なりたいわたしを実現できていたのは、プリパラが毎週放送していてライブがやっていて筐体がゲームセンターにあったからなのだ。振り返り振り返り、プリパラが変わらずそこにいることを確かめながら、ようやく自分の足でえっちらおっちら歩き出したようなものなのだ。プリパラが姿を消してしまったら、わたしの弱っちい脚だけで身体を支え切れる自信がまだない。

 

 

 

つらいです!!!!!!!!!!!!!春からが不安!!!!!!!!!!!!!!たすけてめが姉さん!!!!!!!!

 

 

どうして終わるのだろう、と何度も考える。新シリーズになるから、現シリーズの展開が終わる。シリーズ全体の人気がある状態で次の新たな展開を打ち出す。企業としては正しい選択だと思う。

けれどそういった社会的な側面を無視すると、どうしてプリパラが終わってしまうのか、私にはわからないのだ。

プリパラの根幹にかかわるアニメ設定として、「プリパラは現実に存在する」というルールがある。作中では、姿形を変身できる・物理法則がある程度無視されている・奇跡の力が起こるプリパラという空間であるが、そこはプリズムストーンを通って行ける異世界・あるいは電脳空間ではない。キャラクターたちが暮らす、学校や家のある街からプリズムストーンを”くぐって”地続きで行ける場所なのだ。

現在では作中のプリパラはプリズムストーンという店舗が管理していることになっているが、クレオパトラ卑弥呼たちがいたはるか昔にも、また文明の存在しないサパンナにもプリパラは存在していた。機械が発明されるよりもずっとずっと前から、人類史とともにプリパラは存在し、日常世界と地続きであると同時に、女神や精霊の存在する世界として少女たちの隣にあり続けたのである。

ならば、どうして今プリパラは終わるのか?ずっと人間に寄り添ってきたのに、なぜ?プリパラが存在しなくなってしまったら私は何を杖にして歩けば、受け入れられないつらいつらいつらいつらいつらいつらい、エラーエラーエラーエラー

 

エラーを吐き出さないために、呻いてもがきながらどうにかこうにか屁理屈を考える。 

 

終わるのではなくて、”私たちの前から”のみ姿を消すだけだとしたら?

 

プリパラははるか昔からずっと先の未来も、乙女たちのエデンであり続ける。私たちがこれからも自分の足で立つために、あり続けなくてはならない。

プリパラが消えるのではなくて、私たちがプリパラに置いて行かれるのだ。これからも見守るべき存在としては選ばれなかったのが、今ここで嘆いている私たち。ちょうど方舟に乗れなかった昔の人々のように。

きっとどこかには、今も選ばれ続けた少女たちがいて、そこではプリパラはエデンであり続ける。それならば、プリパラの存在は消えない。

 

一か月。頭を抱えながら嘆いて嘆いて、わたしはこうした答えを得るに至った。もはや”宗教”だし、的確な答えというよりは自分を納得させるための物語を創作していたのに近い。でも、どうしようもない喪失を埋めるための作業って、こういうものじゃないだろうか?少なくとも私にとっては、自分がプリパラに触れられなくなるより、プリパラが少女に必要のないものとして認識される方が信じられなかった。ならば、私が選ばれなかっただけだと考える方がずっと、心の平穏が保たれる。

 

こうして私の聖書には新しいページが書き込まれて、無事動作するようになった。まだだいぶギイギイ鳴るけど、まあ昨日よりはまし。

明日から呻きながらアニメを追いかけ、マイキャラのコーデを集め、そのときを迎えようと思う。良き終末を。

*1:ほんとはうけせかさんの記事「女児時代、プリパラで育って本当によかった」を引用しようと思ったが、話題を呼んだために現在非公開のようである。同世代として、心情を吐露してくださって本当に素晴らしい文章だった。ウカさま好きです。

5話「INVISIBLE FUTURE」キャシャーンVSラジャ・カーン 呪いとは何かについて

5話の感想。これを書いているとき7話まで見ていますが、一番好きな話です。

まず全体を通して。ラジャ・カーンというキャラクターが予想と全然違っていました。4話の引きでピンポン押してた時は、「アッ彼はもしかしてコメディ枠なのでは」と笑ってしまったのですが、そんなことはなくむしろ一番悲惨な形で描かれる、自らの境遇に現在進行形で苦しんでいる人物でしたね。

そしてもう一つ意外だったのは彼の年齢設定。正確な年齢は明かされていないけど葛藤の言葉を聞く限り、異形となった歳でいえば登場人物の中で一番幼いのかもしれない、もしかして。安元さんは年上とかおじさんとかを演じるイメージの多い役者さんですが、心情を吐露している戦闘中のセリフが、あの低い声であっても異形の怪物に変わっていようとも、中にいる十代の少年が透けて見えるのはさすがさすが、やはりすごい役者さんです。

ということは、キャシャーンとはチーム年下という点で共通してるわけだ。中の人同士は一番年齢離れているのに!ときめく!

 

自分が異形の姿となり迫害されて苦しんで、どうにもならないその感情のはけ口を「父親」という一点につめこんだカーン。でもキャシャーンが反撃に出て「許せなかったのは自分自身なんじゃないか!?」と問う。それに応えず空中戦しながらキャシャーンを振り払おうとする姿が、だんだん小さな子どもの駄々をこねてる様に見えてきて…わたしはここでカーンにめちゃくちゃ心を寄せてしまうのです。

子どもひとりで抱え込むには大きすぎた呪いを、誰かを恨むことでやりすごそうとした。けれどその相手へのもともとの想いを踏みつぶしてしまうことにもなって、より苦しい。

そりゃ駄々をこねたくなるよね。誰か何とかしてよって思いたくなるよね。はーーーーーーカーーーーンーーーーーーこたつで蜜柑と猫をあたえてえーーーーーーーー!!!!

 

「生きるとは自分だけの願いを持つということだ。どんなに小さくてもいい。僕の願いは、アボカドクリームパスタの味を知ることだ!」

そしてこのアニメの視聴者を飽きさせずスピーディーにかつ濃密に話を展開させるうえで上手なところ、戦闘と感情のやり取りとを分離させずに連動させて描くのが大好きなのですが、今回も戦闘の結末はこの名セリフによって決まったのでした。毎回名セリフがあるぞこのアニメ。脚本家さんの言葉選びが巧みすぎるよね。アボカドクリームパスタという単語で笑たちと食べていたシーンがぶわっとよみがえるし、そこがかけがえなく大切な居場所として感じていたのだということ、少年としての一途さが視聴者に叩き込まれて、もう呆然となるしかない。私はびょおびょお泣いていた。

 

「さっさと殺せ」と吐き捨てるカーンに、「また来る」と言うキャシャーンのセリフでもこみあげてくるものがある。

再来するときに改めてとどめを刺す、という意味にもとれるが、きっとそのとき彼はカーンと話をするのだろう。お互いの境遇のことか、はたまた他愛のないパスタの味のことか。いずれにしろ、キャシャーンにとってはカーンさえも「ヒーロー」として救うべき人々の一人に、あたりまえに含まれている。お前を見捨てない、遠ざけない。だからまた来る。

この短いセリフからも、キャシャーンの姿勢…恨みを持たず真っすぐにヒーローとしてみんなを救うという、ある種10代の少年らしさがのぞく純粋な願いが感じられるような気がして。そしてその言葉をかけられたカーンの気持ちを想像してまたおいおいと泣くのでした。

以上5話の感想でした。初見はジーンときただけだったのに、見直したときは自分でも引くほど泣いた。斉藤壮馬は最高。

 

 じゃあその、彼らが心の支えにし、かつどんなに踏みつぶされても手放すことのない「ヒーロー」って何を指してるの?という部分に次の6話で言及されるのが上手すぎて…もう…好き……。書く機会があれば備忘録としてとどめておくことにします。

 

ほんとInfini-T FORCEゲームにしてほしい。個人ルートでそれぞれ攻略したい。

アニメ:Infini-T FORCE 作品テーマと演技について

www.animatetimes.com

 

4話の感想書いてから上記のインタビューを読んだんですが、思ってたことが製作者側とバッチシ合ってたみたいでした。

テーマのこと、キャラクター同士の関係のこと。

演技的な話もあってとても読み応えある記事だったのでめもめも。記事から引用します。

 

「古臭いおじさん」について

関:世代的にヒーローはもうひとつ下の世代の後輩たちが演じるんじゃないかなと思っていたので、「悪者を取りに行った方がバランスいいかな」みたいな(笑)。

ただオーディションのときには監督の意図が分からなかったんですけど、改めて聞いてみると僕たちの世代で良かったのかなと思います。

茅野:どういう意図だったんですか?

関:クソ真面目なおじさんが若い子を説教する話を、真面目にやりたいと言っていたんです。


──熱い展開をストレートに描きたいと。

関:言っていることは今の時代からすると古めかしいかもしれないけど、そこに実直な気持ちが伝われば、若い子の気持ちも動かせるんじゃないかという狙いがあったみたいなので。

説教もそうなんだけど、和やかなやり取りの中にも過酷な戦いに身を投じていることがわかるセリフがあって、それがさらっと重みをもって語られるのは役者さんの年齢があってこそだなと思う。

たとえば教授のハロウィンパーティー中にあった「楽しんでいる人たちを見ていられるのは幸福だ」(うろおぼえ)とかに代表されるような、この世界に来るまでは遠いものだった平和や日常の幸せをしみじみと受け止めているときの演技は、やっぱり年齢も経験も積んだ役者の面々であるからこそなので、いいなあと思います。贅沢な作品だなあ。

でもさ、「おじさんが若い子を説教する話」とあるんですけど…最年長の健が24歳なんですけど……公式見てヒエッてなったよ…女子高生と7歳差なんですけど…?

原案イラストはまだわかるんだけどCGモデルはどう頑張ってもれっきとしたおじさんだよ!!!35歳だよ!

作品の面白さには関係ないので問題なしですけどね。うふふ…複雑…

 

演技について:”アニメっぽくない”理由

関:良くも悪くもですけど、声優さんって喋り口調がみんな似ているんですよ。アニメのキャラクターにあてることに慣れ過ぎているので、言葉をフィーチャーした喋り方になっているステレオタイプの方が多くて。

でもモーションを担当されている方や役者の方、スーツアクターの方は芝居がナチュラルなんです。今回は逆にアクターさんの芝居に寄せられたところもあるので、もしかすると我々の口調も他のアニメとは違うお芝居をしているかもしれません。


──モーションアクターの方の芝居を見てからアフレコに臨むため、リアルな人間の喋り方に近いと。

関:人って喋るときは意外と言葉を切らないんですよね。声優さんはセリフだと思うと切って喋ったり、単語を立てたりしちゃうんです。

でもアクターの方は、それらに囚われないでセリフを言ってくださるから、自然な人の話し方に寄せやすくて。尺も少しならズレても大丈夫だったので、自由度が高くて非常にやりやすかったと同時に新しさも感じました。

茅野:最初の数話だけは口元まで完成していたので合わせていたんですけど、それ以外は自由に演じさせていただきました。アクターさんのお芝居もすごい参考になって、そこからセリフのニュアンスをいただいたりもしました。

アクターさんの芝居に声を付けてる!これを知ったとき「完全にニチアサじゃん!」とはしゃいでしまった。だってヒーローですから!

話し方も大仰でなくて、相手を目の前にした囁くような声の演技が多くあったのもこの制作方法が理由だったんですね。ならば見てる側としてはアニメよりむしろ、特撮を見てる時に使う脳みその部分が反応しているのでは?ますますジャンルを超えて、実写畑の人にも見てもらいたいしアニメ畑の人にも見てもらいたい。

映画館で見る劇場版が楽しみになってきた。アクションが大迫力で観られるのはもちろん、ストーリーもしっとりと楽しめる期待が出てきた。

 

 

アニメ:Infini-T FORCE 4話「IMAGINARY FRIEND」テッカマン VS. ベル・リン 健と笑について

www.infini-tforce.com

プリパラに熱狂している私ですが、CGで大変お世話になっているタツノコプロアベンジャーズことフルCGアニメが始まるというので観始めました。

Infini-T FORCE、まず声優が面白い並びをしているところにも惹かれる。関さん櫻井さん鈴村さん、ヒーロー…というかめちゃくちゃニチアサの雰囲気が漂う3人じゃないですか。そこに斉藤壮馬くんが来る。そして敵側は平川さん花澤さん安元さん。平川さんと安元さんが敵側に回っているとわくわくするタイプですし、花澤さんがセクシータイプというのもなんだか新鮮。

ヒーローたちはそれぞれの世界から東京渋谷に来ている。元の世界でヒーローとして人々を守っていた点は同じだけど、そのポリシーやバックボーンは微妙に違っている。笑ちゃんに対しての接し方にもそれが反映されていて、彼女の生活に足りなかった家族の役割を少しずつ補いあっているように見える。彼女の心に水を与えていっているんだな。

そして観ていくと分かるんですけど、敵側も全然一枚岩じゃない。笑ちゃんパパのZのもとに集ってみんなでケースを手に入れるぞー!オー!だと思っていたのに、3人とも自分のため・自分が君臨する世界のためにしか行動しないせいで、個人的につっこんでいってやられる。いいのかそれで。後半で協力したりするんだろうか。

 

4話と5話のヒーローVS敵の対決、そしてそれと一緒に描かれる笑ちゃんとヒーロー個人の交流がとてもよかった…最高…

ベル・リンについて

花澤さんをいつまでも可憐な少女だけ演じる声優さんだと思っていると時々ぶん殴られる。今回はそのパターンである。ベル・リンさんは年齢不詳なお姉さんキャラなのだけど、花澤さんの声によってかわいらしさと年上っぽい深みが共存している結果、人外であるがゆえに人が良くわからないままに惹かれてしまう美しさが表現されている。すごい。妖艶さを表現する花澤さんにドキドキしてしまう。ベル・リンさんに首の骨折られたい。

もうひとつ彼女にぐっときたのは、人間の身体を模していたときはしなやかで柔らかな女性だったのに、戦闘モードがそれとは正反対の、多面体で構成されたようなパーツだったことです。プレステの初期のゲームに出てくるポリゴンで作った敵みたい!!!メタルギアソリッド1みたい!!アッ違う、カスタムロボだ!!!!!!と興奮しました。妖艶な女性型の敵が変形するとぬらぬらとした触手になることが多いような気がしてたので、普段の姿と正反対のアーマーで相手を殺しにかかるこのギャップになぜかとてもときめきました。

 

あとテッカマンの設定をよく知らないのですが、変身時の苦しみ方を見る限りではもしかしてとても身体に負荷がかかるのでしょうか…?痛みを耐えてでも、目の前の人を守るために戦うんですか。えっえっ、宇宙船でたった一人きりで救いを待っていたことといい、自分の境遇をことさらつらいとかさみしいとか言わないし変身に苦しむことも伝えてないし、もうばか!不器用!でもそれがヒーローたる宿命であり当然のこととか思っていそう。なんだか急にジョージへの好感度があがってきました。猫カフェとか行って癒されてほしい。商店街でやたらとおばちゃんにもててオマケたくさんもらっていてほしい。というかそんなこと言ったらヒーロー4人はみんな商店街のアイドルになりそうだ…。

 

「ひとはひとりでは生きられない」をどう伝えるか?

笑ちゃんは「自分なんてどうでもいい、放っておいて」と1話から繰り返し主張してきました。4話ではその点について大きく踏み込んで、しかもその表現が丁寧だったので、作品そのものについての評価も高くなってきました。

「どうしてひとはひとりでは生きられないのか」結構よく出てくる命題だけど、扱いが難しいよねこれ。今回はそのアンサーとして「みんなつながっているから、ひとりでは生きられない」という主張を選びました。この主張に賛成・反対かはさておき、作品全体のテーマになっているだろうこれをどれだけ説得力ある伝え方するか・そして映像として面白くするかって作品としての力量が試されるポイントですよね(上から目線)。これを戦いの中で、しかも2つの観点で対比しながら伝えてきたので、じょ、上手~~~!!!!と震えました。

 

「みんなつながっているから、ひとりでは生きられない」というふわふわした真理、つたないシナリオだったらきっとそのままセリフとして使われてしまう。しかしながらこの真理をそのまま話すだけじゃあまるで通用しない。セリフとして実感のあるものにしないといけない。その方策として敵であるベル・リンを前提として置いたのが上手。彼女と対峙するテッカマンは科学的な観点から彼女の主張を否定し、それを受けてガッチャマンは精神的な観点から笑ちゃんに語る。この部分のセリフたちがとても秀逸だったと思うのです。

具体的なシーンとして、セリフを抜粋しながら語ります。楽しくなってきたぞ。

 

ベル・リン「私はひとりで生きているわ」

テッカマン「それはただの傲慢だ!」

自分ひとりで生きている/生きられるから、自分のためだけの国を作り上げると語るベル・リン。その考えが間違っているというのは、テッカマンの言う通り筋が通っています。たったひとつの生命が他の生物を踏みにじってはいけないし、そもそもどの生物も繋がっているから、たったひとつの生命だけで生きることはできない。

 

 

健「一人で無茶をするな」

笑「わたしは自分を守ってほしいなんて思っていない、わたしなんてどうなったっていい」

 

一方笑ちゃんの主張に関して、観ている側は「まあ確かに個人の勝手だしなあ」「本人がそういうなら」とちょっと思ってしまうのではないだろうか。笑ちゃんが言ってることは寂しさの裏返しだとしても、この主張に対して「そんなことないよ」とだけ返事することのなんとむなしいことか!

脚本の上手なところはここなんですよね。ベル・リンの主張と笑ちゃんの主張は全然違うようでいて「他人をないがしろにしている」という点で根源的には同じだと繋げてきたのが妙手で、そして観ているわれわれに対しても「敵側には容易に反論できるのに、笑ちゃんの言ってることはわからんでもないんだよなあ」と気づかせて「じゃあどうこれに反論するのか?」と思わせてくれるまでが丁寧なんですよね。

 

健が叱咤します。

健「いいかげんにしろ!お前の命は、お前とかかわったひとたちみんなと繋がっているんだ。お前が死ねば、お前を大切に思っている人たちの思いも死ぬんだ。自分だけ満足ならいいなんて考えはやめろ」

笑「それがウザいの」

健「ウザくて結構だ!俺ももうお前の命とつながっているんだ、俺がお前がどう思っていようと、お前を守る」

「大切に思ってくれている人たちの思いも死ぬ」このセリフ単体でも結構イイなあ…と私なんかは思ってしまうのですが、笑ちゃんは思春期反抗期なのでそれこそ自分が望んだものじゃない、勝手にしろよと突っぱねる。それを受けてもなおウザく彼女を引き寄せる、でもこの返しは結局健もちょっとヤケになってて「勝手にしろ、俺も勝手にする!」というものなんだけど、それでも「笑ちゃんを放っておく」という選択肢は絶対ないんだという真っすぐな感情をひねくれものの彼女にぶつけているわけです。健、お前……もう…………パパみがすごい……

 

このセリフ自体をことばとしてもうちょっと考察すると、ウザいというかクサイセリフなんだよね。

今の時代真正面から真面目な顔で言われたら、フィクションだとしても笑ってしまう。真っ当で真っすぐで温かい言葉。これをもし教授やキャシャーンが言ったら、他の要素がどんなに上手に入っていても、観てる側としては感情移入できないと思う。だってキャラクターのバックボーンとして説得力がないから。

だからそれを言えるのは、スマホどころか携帯の操作もおぼつかない、「女なら料理の一つくらい」と皮肉なしで言えてしまう”古臭いタイプのおやじ”として描かれる健しかいない。「この人物ならこのセリフ言いそう」と納得できてしまう雰囲気が、3話までで構築されてるのは上手な脚本とキャラ設定だなあと思いました。

パパみについて、健はチーム内の立ち位置としても性格としても、笑ちゃんの父親代わりになっている。彼女が遊びに行くって告げても他のメンバーは用事をたずねない。”平成っぽい”他人の距離感だ。でも健は「どこに行くんだ」と気にかけるし、友達に冷たい態度を取っていたら「友達に対してその態度はないだろう」と叱る。彼はズカズカと笑ちゃんのパーソナルスペースに立ち入って関わろうとしてくる。いや、ほかの3人もそれぞれのやり方で温かく関わっているんだけど、健の関わり方は意識的に”昭和っぽく”描かれている。言ってることはとても真っ当なのだけど、最近聞かない言い回しだ。そのうち「おてんとさんが見てるじゃないか」とか言い出しそう。

笑ちゃんからすると自分の行動に対していちいち言われるからウザい。彼の言葉は彼女に親身になっているからこそ出てくるもので、これまでそんな言葉を本気でかけてくるひとがいなかったから素直に受け取る気持ちを知らない。でもどれだけ突っぱねても健が何度も何度も気持ちをぶつけてくるから、ふとした拍子に受け取ることができる。そうやってちょっとずつ笑ちゃんも自分や周りのことに素直になれたらいいなあ

 

アクションゲームでいいので出してください、そしてちょっとシミュレーション要素入れて個別ルートください!!!!!

 

 5話もまとめて書こうとしたのに、4話だけでだいぶ長くなった。記事分けます。

 

ハートネットTV:「歌舞伎町俳句一家・屍派」

 

年明けに「庫内灯 2」を読んだので、ツイートを見たそのままふらっとテレビのチャンネルを合わせてみた。

 

3次元の人間が映る番組は、スタジオ収録じゃないものを見る。ドキュメンタリーは変にうるさくないから好き。

 

番組内容としては、歌舞伎町の飲み屋の二階に集う人々とその俳句。

二階への階段、狭い踊り場に折り重なって積まれる靴靴靴。あっ革靴がつぶれている。目線の高さで靴たちを映し、それから舐め上げるようにカメラの視線が上がる。踊り場から一段上がって入った部屋で、疑わしげな視線と目が合う。狭い部屋にぎゅうぎゅうに入り込んだ人々。

 

この始まり方がなんとなく好きであった。

番組の中では「屍派」の俳句がいくつか紹介され、気になったものだけメモしていたので転載してみる。作者も一緒に載せられないのは申し訳ない。

君が死ぬ金魚じゃないから流せない

友達が成人式で荒れる系→親族が成人式で荒れる系

ウーロンハイたつた一人が愛せない

あとは会話の中で出てきた句の一部「圭太のくせに賢くね?」というのが変にツボに入ってしまった。「確かにけいた、って名前で賢いのに会ったことがない」「酒とバイクに詳しそう」名前だけで性格が決められてしまう圭太。

 

2017年は見られるものは積極的に見ていこうと思う。

自分の欲求を律儀に叶えることで幸福にしていくシステムを構築する。