プリパラに選ばれなかったわたしたち
どうもお久しぶりです。最近は人に誘われて映画をよく見ます。楽しいですねバーフバリ。
ところでプリパラが終わるんですけど。
日常の中でふとプリパラのことを考えると、ここで思考が停止する。エラーにより動作を終了しました。
そのままだと車にひかれたり上司に怒られたり料理を焦がしたりするので、私の社会性が瞬時に脳を殴る、その結果数秒ほどで復帰している。のだが。
いい加減この状態で暮らすのも大変なので、書き出して何とかならないだろうかと思った次第である。
今日久しぶりに筐体で遊び、1月末までの本編を消化して追いついたので、さて書かねばなとパソコンの前にへばりついている。
お知らせです!
— アニメ「プリパラ」公式アカウント (@pripara_PR) 2018年1月24日
2020年に10周年をむかえる「プリティーシリーズ」から、「プリパラ」に次ぐ新コンテンツが誕生します!
タイトルは『キラッとプリ☆チャン』!
4月よりテレビ東京系6局ネット、BSジャパンにて放送スタートです!#prichanhttps://t.co/5MW7jqMb6n pic.twitter.com/E80HNI9vG8
知らない人に言えば、ゲームセンターの筐体および玩具の展開、その販促アニメが企画を新しくするということです。
ツイッターを眺めているとプリパラが終わってしまうことの嘆きをいろいろな言葉で見かける。
曰く、活動圏内の服屋や映画館が全部潰れる感じの、生活にかかわる絶望。
曰く、乗っていた大きな船がひっくり返って救命ボートで海に投げ出されたよう。
曰く、住んでいた家が火事で焼け出されたよう。
あるのが当然で無くなるなんて思ってなかった、自分を守ってくれていた大きな安心感。自分の足元が常に踏みしめていた地面なのに、急に底が抜けたような気持ち。どれもそんな不安を吐露している。
大げさじゃない、どの言葉もちっとも誇大表現じゃなくて大まじめだ。そしてわたしもそれに倣うなら「今住んでる町が一か月後にダムの底に沈むと予告された」気持ちだった。えっっまじ?そんなことあるんだーへーうっそー……え、じゃあそのあとわたしどう生活すればいいの?…………え、わたしいきていけるの?
こんなの、直後に言える状況になかった。一か月前の私は、お昼休みにスマホで新情報を見て、職場で突っ伏して、情報からの感情を咀嚼できなくて、とりあえず呻いた。それから、仕事から帰るととりあえず寝込んだ。咀嚼できなかったからである。
次の日からも、私はプリパラを避けた。仕事が忙しくて休日も出かける用事ばかりで、アニメも年明けからろくに見ず筐体もほったらかして、目をそらした。だって向き合えない。向き合えばたった一か月と少しで”終わる”という言葉が飛び込んでくるのだ。
プリパラが”終わる”とは、わたしたちにとってどんな意味を含有するのか。
嘆く人たちはみなきっと、プリパラに何かしら救われた経験がある。
私はプリパラに救われた。オタクが頻発する誇大表現ではなく、プリパラというアニメのストーリーやテーマに勇気づけられ、キャラクターの生きざまに憧れ、そのキャラたちを表現し体現するi☆Risにときめいた。
彼女たちは「どんな形でも、自分自身を肯定することはできる」ことを伝えてくれた。
コンプレックスは少し角度を変えただけで魅力になること。
人気を得るために普段と変身してもかまわないこと。
他人から見られているときより弱っちい姿であってもいいこと。
我が儘として自分を貫いても、友人と分かり合えること。
他人から望まれるように変わらなくとも、自分が自信を持てる姿でいればいいこと。
このことを繰り返し伝えてくれる作品であることは、私が言わなくとももうすでに様々な人から叫ばれていることだろう。*1
私は鏡が嫌いだった。正確に言えば鏡で自分を見ることが怖くて嫌いだった。やりたいこと・したい服装があっても、自分に許されていない気がして、ずっと遠くから眺めるばかりで身動きが取れなかった。
「みんなに届くように、世界中に届くように!思いっきり歌うぷり!」
「ここではすべての女の子に、それが許されているぷり!」
プリパラは、私を許して救ってくれた。キャラクターだけではない、都会にいるこどもだけではない。中途半端な町にいて身体ばかり大人になっている、他ならぬわたしを!
プリパラを観ているうちに「わたしもなりたいように、在りたいように変わっていいのだ」と思えるようになり、少しずつ、少しずつ自己実現を始められるようになった。
興味のあった服や小物を買い揃えて鏡を覗き込む。行きたいと思った場所やイベントに足を運ぶ。そこでは褒められたり歓迎されたりした。
そのうち、鏡の中の自分が醜くなくなった。と同時に鏡の中の”わたし”とやっと視線が合わさるようになった。この前の春頃のことだ。わたしはようやくわたしを認めてあげられる段階まで来たのだ。
プリパラが好きな人、特に「プリパラに”救われた”」なんて言う人は、おそらく過去に何らかアイデンティティの形成に失敗していて、その欠落がプリパラに触れることで埋まったのだと思っている。
そのプリパラが、終わる。つまり私たちの前から姿を消してしまう?
えっ、つらい。
ねえ今日はずっと欲しかったデザインのワンピースを買った、ねえ今日は化粧が褒められた、ねえ明日は行きたかったコンサートの日だよ。いいかな、いいよね。
一歩一歩、やりたいこと・なりたいわたしを実現できていたのは、プリパラが毎週放送していてライブがやっていて筐体がゲームセンターにあったからなのだ。振り返り振り返り、プリパラが変わらずそこにいることを確かめながら、ようやく自分の足でえっちらおっちら歩き出したようなものなのだ。プリパラが姿を消してしまったら、わたしの弱っちい脚だけで身体を支え切れる自信がまだない。
つらいです!!!!!!!!!!!!!春からが不安!!!!!!!!!!!!!!たすけてめが姉さん!!!!!!!!
どうして終わるのだろう、と何度も考える。新シリーズになるから、現シリーズの展開が終わる。シリーズ全体の人気がある状態で次の新たな展開を打ち出す。企業としては正しい選択だと思う。
けれどそういった社会的な側面を無視すると、どうしてプリパラが終わってしまうのか、私にはわからないのだ。
プリパラの根幹にかかわるアニメ設定として、「プリパラは現実に存在する」というルールがある。作中では、姿形を変身できる・物理法則がある程度無視されている・奇跡の力が起こるプリパラという空間であるが、そこはプリズムストーンを通って行ける異世界・あるいは電脳空間ではない。キャラクターたちが暮らす、学校や家のある街からプリズムストーンを”くぐって”地続きで行ける場所なのだ。
現在では作中のプリパラはプリズムストーンという店舗が管理していることになっているが、クレオパトラや卑弥呼たちがいたはるか昔にも、また文明の存在しないサパンナにもプリパラは存在していた。機械が発明されるよりもずっとずっと前から、人類史とともにプリパラは存在し、日常世界と地続きであると同時に、女神や精霊の存在する世界として少女たちの隣にあり続けたのである。
ならば、どうして今プリパラは終わるのか?ずっと人間に寄り添ってきたのに、なぜ?プリパラが存在しなくなってしまったら私は何を杖にして歩けば、受け入れられないつらいつらいつらいつらいつらいつらい、エラーエラーエラーエラー
エラーを吐き出さないために、呻いてもがきながらどうにかこうにか屁理屈を考える。
終わるのではなくて、”私たちの前から”のみ姿を消すだけだとしたら?
プリパラははるか昔からずっと先の未来も、乙女たちのエデンであり続ける。私たちがこれからも自分の足で立つために、あり続けなくてはならない。
プリパラが消えるのではなくて、私たちがプリパラに置いて行かれるのだ。これからも見守るべき存在としては選ばれなかったのが、今ここで嘆いている私たち。ちょうど方舟に乗れなかった昔の人々のように。
きっとどこかには、今も選ばれ続けた少女たちがいて、そこではプリパラはエデンであり続ける。それならば、プリパラの存在は消えない。
一か月。頭を抱えながら嘆いて嘆いて、わたしはこうした答えを得るに至った。もはや”宗教”だし、的確な答えというよりは自分を納得させるための物語を創作していたのに近い。でも、どうしようもない喪失を埋めるための作業って、こういうものじゃないだろうか?少なくとも私にとっては、自分がプリパラに触れられなくなるより、プリパラが少女に必要のないものとして認識される方が信じられなかった。ならば、私が選ばれなかっただけだと考える方がずっと、心の平穏が保たれる。
こうして私の聖書には新しいページが書き込まれて、無事動作するようになった。まだだいぶギイギイ鳴るけど、まあ昨日よりはまし。
明日から呻きながらアニメを追いかけ、マイキャラのコーデを集め、そのときを迎えようと思う。良き終末を。
*1:ほんとはうけせかさんの記事「女児時代、プリパラで育って本当によかった」を引用しようと思ったが、話題を呼んだために現在非公開のようである。同世代として、心情を吐露してくださって本当に素晴らしい文章だった。ウカさま好きです。