たえてさくらのなかりせば

あなたに会わなければ私の心は平穏で退屈だったろうに。チクショーありがとう! という気持ちを書くところです。

プリパラに救われたわたしたち(アイパラ50話雑感)

プリパラが終わることに耐えられず駄々をこねたのが一か月前なんですけど、あっという間に一か月経ちましたね。

 

maruyukifan.hatenablog.com

 

正直記事を書いてもしばらくは向き合えなかったんですけど、最終回の5日前である金夜に一念発起して4話分ぶっ続けで見ました。50話に至ってはお隣さんから苦情来るかもしれないレベルでおんおんと泣きました。

 

なんで泣いたかって、新衣装とか新CGとかいろいろ構成が上手いのもあったんですが、見返してみて確信した点として、この作品としてのクライマックスに”わたしたち”が登場したからなんですよね。

 

”わたしたち”とは、前回記事で言及した「プリパラに出会ったことによってアイデンティティを再形成できた少女たち*1」であり、もうちょっと一般的に言えばプリパラを鑑賞している視聴者・あるいは消費者。

プリパラというジャンルの特筆する点として、アニメ・声優たちによるライブ・ゲームの体験を通して、作品世界とこちらの視聴者世界がちかぢかとつながりあい、まるで同一の次元に存在しているかのような錯覚/一体感を生み出したことが挙げられる、と思っています。そしてその一体感によって、”わたしたち”はプリパラからのメッセージをより深く受け取り、自身と向き合う勇気を得た。

その、”わたしたち”とプリパラが同じ世界で触れ合っているという感覚を、作品のクライマックスでもう一度呼び起こしてくれたんですよ!!!!!!!さいこうじゃないですか!?!!??1!!!?1・1!なくわこのやろう!!?!>?!・!

 

この点について消化/昇華しないと新番組に正座待機できないので、自分のために書きます。未見のひとにも伝われこの情熱。

 

(当然のことながら、ここから先はアイドルタイムプリパラ50話、およびその前後のストーリー解説を交えた感想になります。一応注意書き。)

(セリフがひとことひとことすごいんですよ、キャプ画貼れないので書き起こします)

 

”夢を失った夢たち”

唯一の相手だったガァララがあっさりとファララを許し和解してしまったことで、悲しさとさみしさにとらわれて暴れるパック、そしてパックのなかに取り込まれて眠ってしまったらぁら。

らぁらが閉じ込められたのは、ガァララが過ごしていた時計塔。ガァララが起き続けるために、これまでパックとガァララが世界中の女の子たちから奪ってきた夢の結晶=ジュエルが、冷たい氷の床や壁の中に埋まっている。そしてその冷え冷えとした空間には、半分眠っているような、あるいはすべてを諦めたような目をした女の子たちがたくさん座り込んでいた。少女たちはさまざまな時代の服装をしている。

彼女たちはらぁらにつぶやく。

「夢なんて叶いっこないわ」

「ここからはもう出られないのよ、何千年もここにいたし」

「もう夢なんて」「忘れちゃったね」

 

「これは、女の子たちの夢…長年閉じ込められているうちに、夢が夢を失ってしまったんだ」

彼女たちはパックがこれまで奪ってきた、パパラ宿に暮らす女の子たちの夢そのものの表象なのだが、長いこと閉じ込められていたせいで、精力を失い存在そのものが消えかけていた。抜け殻のような状態で、彼女たちはここから出ることを諦めていた。夢を叶えられる空間=プリパラの隅で閉じ込められていた、自分の意志ではなく他者によって失われた、夢の成れの果て。

プリパラを出たパパラ宿では、これらの夢をかつて抱えていた少女たちが、一見元気に暮らしているように見えて、自分だけの夢を忘れ、あるいは諦め、そのまま生活しているのだろう。

 

このシーンを見て、「あっこれ”わたしたち”じゃん」と泣き出す。

この「夢」たちって「プリパラでアイドルになって活躍する」のみではなく、人それぞれで大きなものからささやかなものまであるんですよ。*2。職業、休日の予定、新天地での希望、憧れの存在、着たい服。

それらが叶う前に、他者によって抑えつけられ、消え失せてしまった経験なんて、きっと誰にだってある。それと同時に、近くにいる少し恵まれた誰かが、同じ夢をやすやすと叶えているのを見たことも。

夢なんて叶わない、身の丈に合わない高望みだったんだ。思い通りに夢がかなえられるのは限られた人間だけで、それはわたしではないんだ。幼いころにそう感じてしまったら、あとは夢を諦めるか忘れたふりをするしかない。

これが”わたしたち”の根源。プリパラに出会う前のわたしたち。

 

 らぁら=「プリパラ」から”わたしたち”へのメッセージ

らぁらを救うためにマイドリが歌い、閉じ込められていた空間にドアが出現する。

らぁらは、失われた夢たち=少女たちに叫んで手を広げる。

「みんな、夢を忘れないで!」

「ここから出て叶えよう!私たちが応援するから!」

実際に、らぁらはこれまで何度もパラ宿の女の子たちを励まし、憧れを思い出した彼女たちの手を引いてプリパラに連れてきた。ほかのキャラクターたちもお互いの夢や憧れに触れ、ぶつかりながらなるべく尊重してきた。

その姿を見て、「わたしも、夢を持っていいのかもしれない」「持つだけじゃなくて、叶えてもいいのかもしれない」と少しずつ”わたしたち”は思い始めたのだ。

 「本当に?」

「夢、叶うの?」

「…本当に?」

「ここから出られるの?」 

 ここの、らぁらに呼びかけられた少女たちの反応が、いま述べた”わたしたち”がプリパラに出会ったころとダブって見えて、何度観返してもたまらなくなる。今までうつむいていた顔がほんのすこし前を見て、諦めていた瞳がほんのすこし開かれて。

プリパラを見て一歩を踏み出したあとも、いきなり自信なんてすべて身につくものではなくて、何度も何度も、本当に夢を叶えていいのか戸惑って立ち止まりそうになった。「本当にわたしがわたしの夢を叶えていいの?」「わたしの夢は肯定されるの?」とこわごわ何度も振り返っても、その度に笑顔でうなずいてくれたのが、プリパラというジャンルそのものなのだ。

女の子がそれぞれ持つ憧れや夢の違いを肯定し、叶えることを応援してくれる。そんなメッセージをアニメやゲームで4年間発信し続けてくれたこと、その年月も”わたしたち”が救われる要因の一つだったと、わたしは大声で泣きじゃくりたいのだ。

 

それから全員がかわるがわる歌を繋げていき、夢の抜け殻だった少女たちは、忘れていた夢をぽつりぽつりと語り始め、それはやがて大きな声になる。

世界一のピアニストになりたかった、友達百人作る、パティシエ、神アイドル、デザイナーになる、シイタケが食べられるようになりたい、世界中のプリパラでライブする、世界一のアイドルになる!

”Believe Your  Dream!”

曲が最高潮に盛り上がって、ここで観客の女の子たちが一斉に合唱するんですよ~~~~~~~!!!!!!!!!!なくやろこんなの

 

 

ダメ押しのメッセージが最高

そしてパックは暴走を止め、奪っていた夢が吐き出されて全て元の持ち主のところに帰っていく。帰っていくんですけど、ここでまたプリパラの白眉さをちらっと感じてしまったんですよ。

いろんな女の子たちに夢が戻って瞳がキラキラ輝くってシーンなんですけど、一番最初に描かれるのが、町のベンチに座っていた60代くらいの女性2人なんですよ。すごくないですか!?!!失われた夢たちのシーンでも聖子ちゃんカットの女の子出してたりしましたけど、改めてここで「かつて少女だったすべての人々へ、いま夢が戻っていくこと」を表現するんですよ。現在未成年である女性だけじゃないんですよ少女は!!うまく言えないんですけど、わたしはめちゃくちゃここで感動してしまった。

このあと高校生、小学生、高校生?ときて布団たたいてる主婦、OLふたり、ティーン?と続いていくので、この先頭打者がなかったら定番の流れとして流していたと思います。*3プリパラはIQ5000あるってのは本当でしたね。

 

 

 

 

プリパラ終わるの嫌だよ~~~~~!!!!!!!!!ってバタついていた自分にとってはこの50話で、ああそういえばこんな風にプリパラに救われたんだっけ、と思い出してすこし気持ちが昇華されたというか、これからもプリパラは”わたしたち”のような少女を救ってくれるだろうなと思えてちょっと進めたような気がしました。

 

書きたいこと書いたのでおしまいにします。

明日からプリ☆チャンが始まりますね。これにより日曜は正味3時間くらいテレビから離れられないことになります。とっても楽しみです。

*1:この「少女たち」は現在までも少女である必要はないし、性別で少女である必要はない。その人たちの内心に住まう「幼いころのだれか」が救われたのならここでは誰しも少女に含まれる。

*2:このことはアイドルタイムプリパラおよび夢川ゆいというキャラクターで何度も語られ、そしてこのあとでもういちどはっきり示される。

*3:ついでにいうと詳細な記述は省きますが、かつてプリパラ関連のブログで「高校生は女児と呼ばないだろ(=プリパラの対象年齢に含まれてないだろ)」みたいなコメントがついていたことにずっとモヤついているので、何度も示されている「女の子の憧れであるプリパラは年齢で区切っていないこと」の表現は私にとって重要なポイントになっているのです。