たえてさくらのなかりせば

あなたに会わなければ私の心は平穏で退屈だったろうに。チクショーありがとう! という気持ちを書くところです。

感想:「レディ・バード」が引っかかった話


先月「カメラを止めるな!」という映画と「ブリグズリーベア」という映画を観た。いやー面白かった。

 

 

 

 

帰り道、一緒に観ていた友人からこういう話が出た。

「映画作りっていうストーリーの軸は似てるけど『ブリグズリーベア』はフィクションで『カメラを止めるな!』はドキュメンタリーって感じがするな」


なるほどそういう感想の表し方もあるのか、と思った私の脳裏に、別の映画が過ぎった。

どう評していいか分からず喉元に引っかかったまま数ヶ月経っていた作品を、この見方を通したらようやく消化(あるいは昇華)できるのではないか。という書き物である。

 

 

フィクションとドキュメンタリーのどちらかで分けるとするならば、『レディ・バード』は、編集の入らない「撮って出し」みたいなドキュメンタリーだ。

 

 

2002年、カリフォルニア州サクラメント
閉塞感溢れる片田舎のカトリック系高校から、
大都会ニューヨークへの大学進学を夢見る
クリスティン(自称“レディ・バード)。
高校生活最後の1年、友達や彼氏や家族について、
そして自分の将来について、
悩める17歳の少女の揺れ動く心情を
瑞々しくユーモアたっぷりに描いた超話題作が
遂に日本公開!

 

前述の友人から高評価を聞き、ふむふむとお姉さんとで観に行ったのだが、結果二人とも無言でシアターから出てきた。6月のことである。

 

しばらく言語化できず、夜ビールを片手に二人で語ってやっと「面白いとは言えなかった」という感想が出てきた。
評し方に信頼をしている友人だろうと他人は他人だ。おすすめされた作品でも当たり外れはあること、私だってこれまでの人生で経験している。つまり普段だったら「期待したけど合わなかったね~」でおしまいだったはずなのだ。

 

しかし今回は違った。自分が話している感想に納得がいかず、その日だけではなんとなく収まりがつかなかった。
つまらない作品にはそれなりのつまらない理由や批判するべき描写なんかがあるのだと思っていたけど、レディ・バードには特筆するべき理由が浮かばなかったのだ。しかも、一定票の評価を得ている作品なのに、どうしてどのシーンにも刺さらなかったのだろう?その人たちはどこを優れていると思ったんだろう?という気持ちが何日経ってもぐるぐるしていた。


今そのときの気持ちを思いだしてみると、「これを物語にする必要があったのか?」と問いたくなったんだと思う。
なぜなら、彼女の半年間を追ったお話全部を通して、物語として転結に出てくると思っていた驚きや意外性というものが見つからなかったからだ。

しかしそれは「”私にとっての”驚きや意外性」というカッコ書きを着ける必要があるのだと、最近やっと気がついた。そしてそのカッコ書きが、このお話を消化するにあたり重要な気がしたのだ。

 

  • なんで私はレディ・バードを楽しめなかったのか?(世に出ている評価と乖離して?)
  • どこが優れている点と評されているのか?

このへんを、ぐだぐだとのたまっている文章です。
(観ていること前提の文章なので、ネタバレもあるかもです)

 


この作品は、17歳の女の子の大学進学までの1年を描いている。たぶんどの国でもおんなじ、女の子の多くが経験するようなマジョリティの思春期を、丹念に写し取ってフィルムの中に落とし込んでいる。そしてその点がこの作品を作る上でのキモであり、高評価を得た起点になっているのだろうと考えた。


言い換えれば彼女の悩みは地味で、ありふれている。それだけじゃなく悩みに対しての行動が、幼くて痛々しい。
その様が、あんまりにも自分と近しくて、彼女を客観視して愛でることができない。共感ですらない。あれはきっと、同族嫌悪。
私も、あんな風に愚かにじたばたしていたことがあった。だから彼女の次にとる行動が、感情の動きが手に取るようにわかる。*1ほらね、と眉間にしわを寄せながら私は画面を眺めていた。

それくらい、”現実”っぽいように映像が作られているのだ。


特に私が「ああ現実っぽいなあ」と思ったのは、物語の主軸にも据えられている母親との関係だった。
言い争いをする内容だって、ありふれている。進路のこと、成績のこと、服装のこと。
クリスティンは母親に反発しながらも、そこから逃げ出したりはしない。それどころか、時折素直に甘えている様子もある。

進路について口げんかをしながらも一緒に古着屋でドレスを選んで、手に取った服に二人そろって感嘆する。
母親は古くて嫌い、と友達に愚痴を言って笑いながら、その母親が仕事の合間を縫ってミシンで仕立て直してくれたドレスを当たり前のように着て、彼氏のところに行く。2回も。

 

自分の望みを否定する母親を憎みながら、日々どこかでは甘えている。
実際に母親との関係への葛藤真っ最中な人間が観て嫌になるほど、クリスティンの母親への態度は、現実っぽかった。自分の中に経験として記憶していたものが、目の前にそのまま出されているようだった。
いや、クリスティンより年を重ねた他人として観ている分、経験していた以上に母親のことが見えてしまった。


この母親は娘を束縛し、どこにも行かせない親ではない。
娘がなにもかも正しいわけではない。それどころか、娘の方が幼さ故に愚かで自分勝手だ。
彼女は子供だ。母親に甘えながら反発し、都合の良いところだけ独立しようとする、殻から抜け出せない幼虫だ。
そのうち甘えていたことにあるとき気づく。気づいて、彼女は苦悩するだろう。

 

「このまま嫌うのなら、私は母親に甘えていた部分を切り捨て独立する必要がある。しかし甘えていた部分はあまりにも自分に温かく寄り添っていて、それを捨てることは耐えがたい。」

 

そしてその苦悩は一朝一夕に解決するものではなく、子供からほんのすこし成長した若者になり、若者である間にずっと付きまとう葛藤である。

 

いやあ、実に現実っぽい。現実の人間の複雑さ。
こんな描写は映画中には無く私の妄想に過ぎないが、きっとここにたどり着くだろうな、という気になる。

 

私たちが実際に築く関係性の多くは、切り捨てるという判断がすぐにはできない。社会的な人間を数年続け、最近やっとそのことを学んできた。
どちらがまっとうかという評価は、断定することが難しいこともあるし、時間に応じて流動的だ。


つまり、映画を観ているはずなのに、自分がいま暮らしている現実味を感じて、私は失望したのだと思う。この映画が面白いと感じられなかった理由はそこだ。
せめてフィクションくらい、極端であってほしいと。


彼女がいっそ、物語の中で突然ハッと目覚め、「おかあさん、わたし間違ってた!」とハグをしてカトリックの大学に行くのなら、私は指を指して笑って彼女を馬鹿にしただろう。
母親がもっと自分勝手で娘を籠の中へ閉じ込めるような振る舞いをしたのなら、私は彼女を何処までも憎み、そこから抜け出し自由になる娘を祝福しただろう。

 

ところが、『レディ・バード』ではそうはならない。クリスティンが母親に反発する理由も分かるし、一方で彼女が高望みの無茶を言っていて、それを諫めなくてはならない母親の立場が分かるところもあった。
そして彼女と母親は正面切って和解もしないし縁を切ることもしない。大学進学を機に離れて暮らすことになって、携帯で連絡を取り合いながら少しずつ距離を測っていく。これらの描写はまた”現実らしい”のだ。


フィクションなのに、ここまでリアリティのあるものに仕立てたことは脚本と監督の妙だと思う。*2
だから、この作品は当事者でない人には新鮮で、別の生き物である17歳の女の子の気持ちがしみじみと理解できるものになっていると思う。理解できるように丹念に描いたという点が、この作品が優れているという評価の根幹にあるのだと思う。


しかしだからこそ、私からしてみれば映画の終わりに至るまで意外性がなく、淡々と女子高生の半年を観せられたような気持ちになったのだ。インタビューのない、密着ドキュメンタリーのような。

 

「青春の輝きと痛みを知る
 誰もが共感して心震わせる
 これは、あなたの物語」

 

このコピーも、作品を薦める上でなんら的外れではないと、今なら思う。
人によっては、公式HPのあらすじと私の感想と、いったい何処が違うのかと思うだろう。でも個人的には対極にあるくらい違うのだ。


あらすじは正しい。しかしこれは容易に想像できるような、チークと口紅でかわいらしく飾った女の子の瑞々しい青春物語とかではなく、そばかすがはっきり見えるようなカメラで撮られた、ずるくて愚かで浅はかな子供がガンガン壁にぶつかって転びながらちょっと前に進んだ時間のお話だ。

 

だから宣伝としてはキラキラ成分が多すぎるんじゃないかなあと、そう思ったわけです。

*1:さすがに車から転げ落ちるハンストはしたことないけど

*2:ちょっと一般に落とし込みがたいところはあるけど。彼女の性知識とか